いま、一人一人の学生を孤独へと追いこむ状況の深まる中から、破ろうにも破れぬ豊かな普遍性への欲求があらわれようとしている。全面的に発達した人間ではなくて、偏狭な特殊に縛りつけられた部分人間になることに、専門への奴隷になることに、歓喜するほどに堕落した、転変する教育の現状をとおした、今日の資本のもとへ絶望的に包摂されてゆく労働者の中に同時に人間性の完全な復活の萌芽を見んとし、ベトナム戦争を熱い焦点にした、中国の文化大革命からデトロイトの黒人暴動へと現れ出る世界史的動向に、真に人間らしく関わろうとする態度が芽生えている。普遍性に対する制限を苦痛として感受し、かつこの制限を超克せんとする熱情をもって、自分自身の『目』を射ずにはおかぬものを凝視し、生き生きとした相互の「交通」の衝動に駆られながら人間らしく闘おうとする限り、学生も、それぞれの『目』を結び合わせて、一つの生きた『社会的な目』にする必要に、せまられている。
「多様性に基づく教育」! 教育の世界的動向にそいつつ日本の教育を改革するのだというこのスローガンは、戦後日本の教育を今日の「産業と社会の要請」に即応するものに変えるのだとされている。「職業についての偏見打破」とか「各人の能力に応じて」、「女性はその特性に応じて」とか、「適性の早期発見」とかいわれ、結局のところ、ほとんど職業の数、社会的分業の数ほど多コースに分岐した教育体系に表現されるこの基本方向は、小学校から大学までの全過程を、個人のある一面を極度に温室的に助長して他の面を抑制することによる、個人の部分人間化、畸型化に完全に奉仕させようとするものであり、一大不具者製造機構として完成させようとするものである。いまや、「専門化」!「多様性」!「能力主義」!というときの声をはりあげて、一般的なもの、共同的なもの、世界史的なものは日々に疎遠な地方的ないし教師的偏狭性の小人どもが、専門の奴隷と職業の白痴が、なんと「世界的舞台」の登場人物としてもち上げられている!
今日の社会内部の分業を特徴づけるものは「国際競争にうちかつために」とされた、徹底的な職業の専門化と職業白痴化に要約される。教育は社会によって制約されその社会は産業とともに変化するが、現在、「産業再編成」という産業合理化によって、日本の社会は一変しつつある。産業合理化の現段階は「社会主義諸国」をのみこむほどの世界市場を前提とし、「病める巨大都市」と「農村人口の過剰」という都市と農村の極端な分離を基礎とし、かつそれらを拡大する方向に反作用するところの、先行した突撃のような資本主義的技術革新を受けての社会的分業体制の帝国主義的改編であるが、それは社会内部の分業の驚くべき増大であり、それとともに統治機構内部の分業とその系統図の怖るべき肥大化であり、専門奴隷と職業白痴のものすごい拡大再生産である。今日の「産業と社会の要請」という教育に対する最高命令とは、かかるものである。
教育の領域ですら一人の学生がおかれている地点からする限り偶然的に見える状況の変化もこうして日本の全体に関わっており、そればかりか確かに世界的動向の一環となっている。
一九五七年のEEC第一段階の開始とソ連の人工衛星の打ち上げは西ヨーロッパとアメリカの教育改革を大きく刺戟した。イギリスは、『一五歳から一八歳まで』 (クラウザー報告一九五九年)という教育改革案を発表して「貿易国であるこの島国が……教育以外のなににより多くより確実な利益を得るため資金を使用すべきであるか見出すことは困難なのである」と、EECの第一段階における飛躍的成長を目のあたりにして停滞から抜け出そうと「投資としての教育観」をかかげて、「経済競争におくれをとらぬこと」を強調しつつ「すべての者に中等教育を」の内実として一段と効率の高い「専門化」の教育へと突進しようとし、フランス人は、ド・ゴール=ベルトワン教育改革(一九五九年)によって、「教育の前の平等」とは「多様性」に基づく平等だと、科学技術の急速な進歩と産業構造の変革に即応するということを教育への最高の要請として、ほとんど職業の数ほどに多コース化した教育体系を整備し、他方、「教育の自由」なるものによって「宗派教育の自由」を国家が保証することにし、アメリカはスプートニク・ショックによってその背後にあるソ連の科学技術教育の発達に驚愕し、「現下の緊急事態はより多くの、より適切な教育の機会が活用されることを必要としている。わが国の防衛は複雑な科学の原理から出発した近代技術の習得にかかっている」とか、急きょ「国防教育法」(一九五八年)を公布して、国家の存続か死滅かという破天荒な問題設定のもとに教育が論ぜられ、リッコーヴァー(最初の米原潜ノーチラス号の建造責任者)やコナント(かつてのハーバード大学総長)が伝統的なアメリカ教育をむしろヨーロッパ式のものに改革せよと、デューイ流の教育思想を排撃して能力別の多コース化を提案し、戦後の日本教育が模範としてきたアメリカ式新教育そのものに重大な変化がはじまっている。そしてソ連では、ロシア革命初期の「統一労働学校」の原則はスターリンの「一国社会主義建設」なる五ヶ年計画の推進の下で放棄されて、三〇年代の新教育批判以後、テクノロジーと専門化、多コース化、教条主義的な詰込み教育へと転回し、戦後は急速にそれを拡大してきている。
一面的な科学技術教育と専門性の教育、それにナショナリズムや「反共」や宗教の姿をとった体制維持のイデオロギー教育の強調は日本ばかりでなく世界の一般的傾向になっているが、特にその「多様性に基づく教育」という基本方向が示す「専門化」への嵐のような突進は、戦後の熱病のような資本主義的技術革新を受けてその分業体制の再編に応ずるものであり労働の転変と流動をともなう生産の技術的基礎の変革と他方での一層醜悪で厳格な分業体制の再生産という資本主義の絶対的矛盾の教育における現われである。
戦後日本のアメリカ型新教育としてのいわゆる単線型教育体系はいま大きく変わろうとしているが、それは単に戦前の教育への復帰ではなくて、むしろイギリス=フランス型に近い複線型教育に向う専門奴隷と職業白痴を完成する道であるならば、いままでの「民族教育」が標榜してきた「新教育」運動の「全人教育」なるものは何ものであるのか? それをただ「守る」ことが大切なのか? 社会によって制約される教育が、それにもかかわらず、社会内部で進行する人間の部分人間化をそのままにしてただ教育の中だけでの「全人」がいかに幻想的なものであるかは現在、国際競争に生きぬくためにはと、「いままでの教育はあまりにも形式的平等であったので、これからは多様性にもとづく平等でなければならない」というふうに弾劾されることに見てとることができる。「新教育」運動にとっては、専門性を否定するということは社会進歩を否定するに等しいのだから、それは、現実には専門奴隷、職業白痴でありながら、ただ感傷の世界でだけ「全人」をとりもどそうとする全くのブルジョア的教育運動であるに過ぎない。全面的に発達した人間はただあらゆる専門なるものの否定の上にのみ可能である。それは単に彼岸に立つ将来社会の出来事にすぎぬものなのだろうか? 否。それは現在の工場制度の中にすでに芽生えている。
今日の社会内部の分業の特徴が職業の専門と職業白痴であるのに対して、今日の工場内部の分業の特徴は、労働が専門を喪失し、それとともに職業白痴が消滅するということである。労働が一定の質的規定性に固定し、それぞれ単に特殊なものにすぎないならば、普遍的本質は単に思惟されるべきもの、理性的なものにすぎず、あるいは本質を欠いたせいぜい現象の関連だけが普遍性、必然性だとされてしまう。ところが労働、この感性的活動が、そのものにおいて一般的なものとなるや、普遍的本質は現実的なものとして把えられはじめる。感性は単に特殊に縛りつけられることから自由になって普遍的なものを感受しはじめる。奴隷にふさわしいものでしかない労働から切り離されて「楽しいひまつぶし」を手に入れてはじめて、普遍性についての追求がはじまった、というヘーゲルが喜んで引き合いに出すアリストテレス的見解とは異って、特殊な労働から離れることを労働一般から離れることにしてしまうかつては不可避的であった古い見解とは異って、感性を理性のために過ぎ去るべき契機にしてしまうのではなく、あくまで労働一般から離れないことによって、本質は観念的本質ではなくて現実的本質として把まれることになる。労働が、あらゆる専門的性格を失い単純で平均的な労働になるということそのこと自体が今日の工場の唯一の革命的側面であって、労働があらゆる専門的性格を失うや、普遍性への欲求、個人の全面的発達の傾向が感じられはじめる。生産的労働と教育との結合の意義はここにこそある。
「労働は生命のランプに油を加えるものであり、思索はこれに火を点ずるものである」というジョン・ベラーズをマルクスは「今日の教育と分業の必然的止揚を、すでに十七世紀末に明確に把握していた」と評価しているが、ロシア革命の生きた革命的創意性は、マルクスの次の言葉を真理として感知し、その革命的教育の上に高く掲げた――「将来の教育――社会的生産を増大するための唯一の方法として、特定の年齢以上のすべての児童のために生産的労働を教育および体育と結びつけるであろうところの将来の教育――の萌芽は工場制度から芽生えたのである。」
『目』は、この感性的意識の機関は、専門に閉じ込められた人間と、その専門的性格の消えた労働をする人間とでは、異った働きをする。プロレタリアートは、本質を感受するようになった『目』をもって自立する。「教育は注入ではない」とするフォイエルバッハの批判的継承者として、マルクスは第一インターナショナルが呼びかけた労働者自身による労働者階級の状態の調査について、「これは労働者が自分自身の運命を自分の手ににぎる能力のあることを証明するだろう」と言い切ることができた。
教育は社会によって制約され、また社会を変革するものは教育者を教育するものでもある。専門奴隷と職業白痴の『目』をいくら寄せ集め、結びつけたにしても今日の社会の本質が見える訳ではない。労働のあらゆる専門的性格を失うことによって特殊の隷属から自由となった生産的労働と教育とを結合する労働者の『目』だけがその団結によって結合された『社会的な目』だけが、今日の社会を根底から変革する者の『目』である。真の『結合した目』は団結によって結び合わされるプロレタリアートの『目』だけであり、学生の、学生として(の)『目』ではなく、団結を通じて結合してゆくプロレタリアートの『目』に結びつくことによって、まさにプロレタリア統一戦線の一環としての学生となる度合に応じて、相互に交通する『目』は真に『結合した目』となり、それは賃金労働者の革命的労働者への転化を大きく鼓舞することができる。
闘う学生の全国政治機関紙は、闘う学生が相互に交通するための極めて重大な機関である。かつて社会主義者の政治機関紙は「注入」のための方策とされた。プロレタリア社会主義者、共産主義者の全国政治機関紙は、プロレタリアートが生きた「結合した目」をもって世界史の運命をその手ににぎるべく自立するための方策でなければならない。プロレタリア統一戦線の一環として成熟する革命的学生運動とその団結のための全国政治機関紙は、学生の機関紙であるにもかかわらずこの『目』の性格によって、プロレタリア解放闘争にはかり知れぬ励ましを与えることができる。
かつて学生運動の政治的性格はその内実上の中心が『祖国と学問のために』であった。今日のそれは『プロレタリア統一戦線のために』でなければならない。一九五二年講和、安保両条約が発効し、日本のブルジョアジーが革命的労働者階級を見つめておそるおそる形式的独立の一歩を踏み出すや、激しく民族感情をかきたてられながらこの年の秋の内灘から始って浅間、妙義、富士とうねりをもって全国化する基地反対闘争が、五六年十月十三日の「警察官諸君! 日本人同士が血を流すな!」に始まり「赤トンボ」の歌に終る流血の砂川闘争へと押し上げていった。これらの闘いの背後にある政治上の旗は『祖国と学問のために』であった。五六年から六〇年安保闘争へと突き進む全学連の闘いは、この「祖国」がうすれてゆくとはいえ、まだそれから訣別してしまったわけではなかった。六〇年安保闘争をくぐり七〇年に三たび安保をめぐって闘わんとする全学連にとって、その勝敗は、「祖国」を持たぬものとしてのプロレタリアートの闘いに、どの程度内面的に結びついているかに掛っている。五六年砂川闘争はベトナム休戦、日ソ国交回復、「ジュネーブ精神」や「バンドン精神」が謳歌されるなかで勝利したが、その素町人的・農民的民主主義―平和主義は、韓国で李承晩打倒闘争が勝利する中で過激化は強めながらも六〇年安保闘争を頂点に敗北した。現在、ベトナム闘争が砂川、沖縄闘争と結びつくなかで、七〇年代の闘争への質が問われている。
ベトナム戦争はさしあたり農民戦争であるが、それはアジア的共同体の母斑を濃厚にくっつけているという種類の農民の戦争でありアジアの後進諸国の労働者は、この農民から階級的に独立した地位をまだ手に入れてはいない。他方アメリカのベトナム反戦闘争に結びつつある黒人暴動は、単に人種問題ではなく民族問題でさえなく階級問題であるが、資本主義体制は、性、年齢の差と同じく、「カラーライン」が突き出す人種という人間の自然的区別を極度に利用しつくす点で最も醜悪な姿を見せるという種類の、特殊性をもった階級問題であり、まだその特殊性に縛られて自分自身をまぎれもない階級問題として指し示してはいない。日本のプロレタリアートが階級として独立した闘争へと成熟し、それによって後進国プロレタリアートの顕在化とアメリカプロレタリアートの加速を促すということは単に自分自身が来たるべき決戦に血の海に沈められないためだけではなく、同時に自分の果すべき国際的任務をになっている。
プロレタリア統一戦線の一環を構成すべき日本の革命的学生運動は、この全国的国際的な任務の名誉ある一翼を断乎として背おわなければならない。われわれにとって、プロレタリア統一戦線とは、単なる労働者の共同闘争とその「統一戦線」にすぎぬものではなく、また、異った諸党派で代表される諸階級の、共同の敵に立ち向う限りでの共同闘争やその「連合戦線」に止まるものでもなく、まして階級的政治的には秩序づけられてはいない「広大な大衆闘争」などではない。それは、プロレタリアートの独立した党によって階級的政治的に秩序づけられた、労働組合をはじめとし、現在の階級的立場をすてた農民、学生、それにブルジョアジーの一部さえも含むプロレタリアートの党と諸大衆組織の闘う統一体である。この独立したプロレタリア統一戦線の擡頭をもって、きたるべき決戦を闘い抜かなければならない。
プロレタリア統一戦線のための革命的学生の闘う全国政治機関紙は、革命的労働者党の建設と大衆の階級的前進に奉仕しなければならないし、また奉仕できる。生産的労働と教育とを結びつけるプロレタリアートの『結合した目』の有機的構成部分となるならば、商品物神、貨幣物神、資本物神からの人間としての自立と全面的に発達した人間とはわれわれ自身のことをいっているのだ! 現在の鉄火は試練であるとともにすでに始っている解放であり、解放の開かれた大地への到達は、不可避的である! 現実の衝動を人々が意識して闘いぬくものこそイデオロギー的形態であるならば、わが全国政治機関紙は、すでに開始しているプロレタリア的戦闘の衝動を、ただ意識して突き出すだけである。
プロレタリアートに対する「外部注入」のための布教機関ではなく、自立するプロレタリア統一戦線のための生きた交通機関として学生戦線から為すべきことを為すであろう!